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第六話 入院初日 [第二章]

ボクが最初に富山県立中央病院で診察を受けてから57日目の7月15日に、ボクは入院しました。



いろいろと悩むことはありましたが、悩んでいても仕方がない…手術を受けるための決意も固め、自分なりに
納得ずくでの入院のつもりでした。



つもりって???


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第五話 入院までの日々 その② [第一章]

前回はボクの入院まで大変日数がかかってしまったことなどをお話しました。



実際に、術前の検査だけでも結構順番待ちみたいな感じでしたし、3つの透視的検査が終わってから
きちんとした治療方針を決めるみたいで、時間がかかるのも仕方がなかったのかもしれませんね。




ちょいと話を変えてみましょう ^^


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第四話 入院までの日々 その① [第一章]

前回はオフクロにボクの口から病気になってしまったことを告白するという内容でした。


実際に告白したのが6月20日で、手術のために入院したのが7月15日ですので、告白から入院まで
25日間もあった計算になります。


更にボクが告知を受けたのは5月27日でしたので、その日から数えると手術まで実に51日間も待ってた
ことになります。さすがにこれは長いと感じましたね…
入院指示書


ボク自身『もっと早く手術は出来んのか?こうしている間にもがんは大きくなるんじゃないのか???』
という不安でいっぱいでした。



何故そんなに時間がかかったのか…


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第三話 告白 [第一章]

このブログを書くにあたって、資料となっているのが入院中にベッドの上で書いていた日記です。

日記

書いていたとは言ってもPCのwordでチョコチョコってメモ程度に書いてただけなんだけど、それでも
プリントアウトしたらA4版で約50枚になりました。
日記

今になって思い返すとその時の状況なり気持ちなりが甦ってきます。


中には思い出したくないこともあるんですが…



平成22年6月20日


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第二話 二日目 [第一章]

がんと診断されて、2日目にこんなことを書いていました。


2日目  2010.05.28 (曇/晴)
一晩経ったが、どうやら夢ではないらしい。『まさか』の想いが今も残ってはいるが、どうやら現実のようだ…紀子、ごめん。勇太・健志・陽平・おふくろ、ごめん。
今日は午前中に興亜、そして今日中に曲創り、田んぼも回らねば







実は、がんになったと発覚してから、すぐに家族に相談することはできませんでした。


理由は簡単です。

『オフクロのショックを考えたら、そんな簡単に話すことはできないな…』でした。


何故なら、これが特別な事情になるかどうかは分かりませんが、我が家は前の年にボクの親父を
事故で亡くしているんです。

なかちゃんのうたごえ日誌 3月29日 『ありがとう』



その親父の事故死から1年とちょっと、やっと普段の生活の中に笑顔の出てきたおふくろに対して、
ボクががんになってしまったなんて、言えませんでした。



それともうひとつ…ボクのオフクロは趣味で民謡をやってるんです。


そして毎年『北日本民謡舞踊選手権…?』だったかな???に、出場して、県大会に出て唄うのを
目標にして頑張っていたんですね。


その大会に一昨年は親父の件があって出場出来ませんでした。そら無理もないわな…


そして昨年の地区予選が6月20日頃だったと思いますが、その大会を前にボクの病状など言って
しまったら、オフクロはきっと予選で唄う力など残すのは無理だと思ったんです。



だから、その予選が終わるまでは黙っていることに決めました。





その途中で日記にはこんなことも記しています。


かなりサボってた…  2010.06.08(曇)
こんなのを書き始めたけど、やっぱり心のどこかで『ウソだろ???』ってのがあって、なかなか信じることができないでいる。情けないなぁ…オフクロに悟られないようにしなければ。明日はPETによる検査だ。転移がなければいいのだが…



この間…といっても、たった十数日なんだけど、とっても長かったです。



当時我が家ではシロアリにやられたお風呂の補修工事も進んでいましたし、本来ならば毎日があっと
いう間に過ぎていくのかもしれないけど、ホントに長かった…



そして、いよいよオフクロに話すべき日がやってまいりました。






自分できちんといろいろ憶えていると思ってたんだけど、記憶って曖昧なものですね。


やはりこれはきちんとこのブログを書き終えなければならないようです (^^;


次回に続きます (^^;






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第一話 『おふくろ、ゴメン』 [第一章]

『じいちゃ~ん、ありがとう…父ちゃんが帰ってきたよ…ぎ、ぎぇ~~ん、ぐひっ、ぐぉぅぅぅん…』



声にならない声で、仏壇に手を合わせてオフクロが泣いていました。

今まで必死にこらえていたものが、堰を切ったように…

平成22年11月26日、ボクが退院した日です。




その4ヶ月半前の7月15日にボクは入院しました。

病名は『左上顎歯肉がん』でした。






話はずっと昔、小学生の頃まで遡ります。

ボクは子供の頃から割とズボラで、歯磨きなどはあんまり好きではない子供でした。

小学校4年生くらいの頃、学校の歯科検診で虫歯を発見されて、治療カードなるものを渡されたのですが、
実はあまりの痛さに治療を途中で止めてしまい、歯には穴が空いたままでした。

その後の学校の歯科検診も適当にやり過ごし、ボクの歯の穴はだんだん大きくなっていったのです。

そして高校を卒業して社会人になってから、その歯は麻酔をかけて治療する必要があるくらいに大きな
穴となりました。

でも、麻酔をしての治療なので、そこは大丈夫…ずっと穴が空いたままのボクの歯はその神経を抜かれて
何とか10年ぶりくらいに治療を完了したのでした。






もうひとつ…ボクは昔から鼻に蓄膿症の気があるとお医者さんに言われていました。

実際にボクは40才の時に蓄膿症の手術をしているのです。

その手術の話はまた後日にしますが、この蓄膿症ってやつと、神経を抜いた歯がすぐ近くにあり、少し
風邪気味になると鼻が詰まる、鼻が詰まると歯茎が腫れる、歯茎が腫れると治療で歯に被せた部分を
取り除いて歯茎の中を掃除してもらう…こんな変な悪循環が2~3年に1度ですが、20年前くらいから
続いていたのです。

そして、過去の記事にも抜歯したこととして書かれていますが、この時も同じような症状が出てたのです。
なかちゃんのうたごえ日誌 2010年4月20日  『化粧について』


この時は『また奥歯の歯茎が腫れてきた。歯医者さんに行かねば…』程度しか考えてなくて、宴会の
数日前に歯医者さんには行ったのですが、宴会があるから抜歯はそれが終わってから…なんて程度の
考えだったんですね。


でも、実際はいつもとは違いました。

抜歯して、歯茎の中を掃除して、それでも腫れが退かない…まだ掃除が足りんのかな???との思いで
5月20日に再度歯医者さんに行きました。


そしたら先生は『まだ退かないとはおかしいな…紹介状を書くから、大きな病院の歯科・口腔外科で診て
もらってください』とおっしゃいました。


県立中央病院を紹介されてその日のうちに診察を受け、歯茎の組織片検査ということで一部分を切り
取られたのですが、もしかしたら普通の方はそこで何か気付くというか、ピンと来るものがあるのかも
しれませんね ^^;


ボクはといえば全くの脳天気で『こんな歯茎の中を掃除するのに手術とかになるんか?めんどくせー』
程度の想いしかなかったんですね…


それから1週間後、5月27日に中央病院を訪れたボクに歯科・口腔外科の先生は『歯茎のがんです。
手術が必要です。』とおっしゃいました。


ホントにおかしな話ですが、それまで全くがんの可能性を考えてもみなかったのです。


こういうのを『青天の霹靂』というのでしょうか…


その日の想いをボクはこのように日記に綴っています。

宣告初日  2010.05.27 (雨)
今日県立中央病院で『がん』であると告げられた。今まで頭痛や腹痛等で受診したときには少し考えたことだったが、まさか歯科・口腔外科で宣告を受けようとは思ってもいなかったので、全く無防備で聞いてしまった。
強がってはいても、やっぱり少し不安だ…だけど、誰にも心配はかけたくない。強くならねば…



その日のうちに同じ病院内の耳鼻咽喉科を受診し、手術前の検査の日程とかを提示されました。


そして、7月15日に入院、翌16日には手術を受け、4ヶ月半もの入院生活がスタートしたのでした。









最初に書いたような、オフクロの声にならない声…あんな泣き声をボクは初めて聞きました。


そして、その時に初めて自分がいかに親不孝な4ヵ月半を過ごしたのかを思い知らされたのです。






次回に続きます…










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